モルディブ の観光産業はどのように発見され、最初に訪れた観光客は誰だったのか

ジョージ・コルビンが1971年に貨物船で初めてモルディブに到着した時、必ずまたこのサンゴ礁に囲まれた群島のビーチを裸足で歩きたくなるだろと確信した。1,190の島々がインド洋の真ん中に宝石のようにきらめくこの場所で、コルビンは休暇を過ごすのに完璧な場所だと感じた。
翌年彼は22人のゲストと共に戻って来た。彼らの多くはジャーナリストや写真家で、彼らにもこの国を体験してもらおうと考えたのだ。というわけで1972年2月、モルディブに初めての団体観光客が到着した。その果敢な旅行者たちは、コロンボからエア・セイロン(セイロン航空) で飛び、フルフレ島の小さな仮設滑走路(現在のヴェラナ国際空港)に着陸、その後ドーニ(モルディブ伝統的なボート)で本島へ渡った。
そのグループはモルディブが手付かずのままの国であることを知った。10万人足らずの国民が、電話も車も警官も無しに暮らしていたのだ。観光客たちの宿泊場所は首都マレにある3件の民家で、数人の若いモルディブ人が料理と掃除をしてくれた。この若者たちの何人かはのちにモルディブ最大の観光起業家となる。
当時、モルディブの民家はコンクリートではなくサンゴで造られており、器用に葺かれた藁葺き屋根があった。各家には色とりどりの花や、マンゴー、パパイヤ、パンノキといった南国の果物のなっている木々でいっぱいのみずみずしい庭があった。
モルディブには当時マーレの街に一軒だけ「アイス・ハウス」というディスコがあり、当初の観光客たちはそこを訪れて地元の人たちと楽しく過ごしたものだった。
宿泊先の家主である地元の若いモルディブ人たちは、毎日のようにそのグループをあちこちの近くの島へ連れて行ってくれた。中には無人島もあったが、どの島も現代生活の贅沢さからは隔絶していた。最初はこの若きモルディブ人たちにとって、観光客をもてなすことは非常に難しいことだった。彼らのためにどんな料理を作ればよいのか、どのように対応すればよいのかわからなかったのだ。初日の昼食では、両国間(イタリアとモルディブ)の食べ物の好みの大きな差がはっきりと現れたものになってしまった。
メニューはビリヤニ、カレー、ライス、そしてたくさんの地元料理で、ヨーロッパ人の繊細な舌には味が辛すぎた。そこでイタリア人たちは自分たちで料理をすることにした。彼らは自分たちの大好きなスピアフィッシングに出かけ、サメ、スナッパー、バラクーダ、グルーパーなど種々様々な珍しい魚を捕まえてきた。これらの魚は間も無くバーベキューやディナーの皿の上にも登場するようになった。実際、コルビンの製作した最初の観光パンフレットには、モルディブでのスピアフィッシングの楽しさが大いに宣伝されていた。
イタリア人たちは澄みきったターコイズブルーのラグーンに出かけてシュノーケリングをしたり、水中で虹色の魚がサンゴ礁を出たり入ったりしながら泳いでいる様子を写真に撮ったりしながら過ごした。彼らは、昼間はまばゆい白砂のビーチでくつろぎ、夜には星空のもと、月の光に照らされながら散歩を楽しんだ。
12日間の旅行を終えてイタリアに戻ると、彼らは記事を書き、出版した写真にはヤシの木の揺らめく手つかずのビーチの話を添えた。彼らの訪問によってモルディブの観光業への扉が開かれ、コルビンは早速旅行代理店を開設して定期的にイタリアの観光客をモルディブへ送り続けた。モルディブ最初の二つのリゾート、クルンバとバンドスは、サンゴ、ココナツの木材、ヤシの葉の屋根葺き材といった地元の材料を使って建築され、1972年にオープンした。数十億ドルをもたらす観光産業がその時点からスタートし、現在では年間140万人の観光客がモルディブを訪れ、その美しい浜辺に最初に降り立ったあのイタリア人たちと全く同様の経験を楽しんでいる。
それ以前にモルディブを訪れた者たちといえば、難破船の船乗りや外国の軍隊がここを通過していき、その後1960年代には冒険好きなアメリカ人ドライバーや数人のドイツ人旅行者、そしてヒッピー・トレイルから少し回り道をした何人かのヒッピーらぐらいのものだった。しかし、今や有名となった国連の報告書が1960年代にはこう結論付けていた「この海の彼方の島の死活問題は、観光産業を成功させるのに必要なあらゆる施設に欠けていることだ。」